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大阪地方裁判所 昭和54年(ワ)2452号 判決

原告

甲野恒郎

甲野梅子

右両名訴訟代理人弁護士

辺見陽一

被告

戸塚宏

右訴訟代理人弁護士

山本秀師

今井安榮

右山本訴訟復代理人弁護士

加藤豊

主文

一  被告は、原告甲野恒郎に対し、金一二九三万円及び内金一一九三万円に対する昭和五四年五月九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、同甲野梅子に対し、金一二六三万円及び内金一一六三万円に対する右同日から支払ずみまで右同割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  この判決は、第一、第三項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一請求の趣旨

1  被告は、原告甲野恒郎に対し、金一四二三万円及び内金一二九三万円に対する昭和五四年五月九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、同甲野梅子に対し、金一三八三万円及び内金一二六三万円に対する同日から支払ずみまで同割合による金員をそれぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一請求原因

1  被告の経営するヨットスクールについて

被告は、名古屋市において、少年を対象とする「戸塚宏ジュニアヨットスクール」(以下「ヨットスクール」という。)を経営していたところ、昭和五三年二月ころから、登校拒否児等のいわゆる情緒障害児を対象とした特別合宿と称する合宿訓練(以下「特別合宿」という。)を開始した。これは、保護者の委託に基づいて、情緒障害児らをヨットスクールの合宿所(愛知県知多郡美浜町大字北方字東側六番地一所在)に集め、通常五泊五日の日程でヨットの艤装から単独帆走に至るまでの猛訓練を通じてその精神力を鍛練し、これによつて、極めて短期間で情緒障害を克服させようとするもので、右の訓練において、これに参加した情緒障害児(以下「訓練生」という。)らが、被告及びその指揮下のコーチの指示に従わなかつたり、緩慢な動作をしたりした場合には、容赦ない殴打、足蹴等の体罰が加えられた。

2  甲野次郎の特別合宿への参加及びその経緯

原告らの次男である甲野次郎(以下「次郎」という。)は、昭和五四年二月当時、大阪府堺市立M中学校一年に在学中であつたが、同人は、同学年の一学期には出席すべき日数八六日のうち五二日を、二学期には同九三日のうち四七日をそれぞれ欠席し、登校拒否の傾向にあつた。そのころ原告らは、たまたま人を介して被告の行なう特別合宿のことを知り、これに次郎を参加させて同人が登校するように改善してもらおうと考え、同月一一日、被告との間で、次郎を同月一二日から同月一六日まで五泊五日の日程で行なわれる特別合宿(以下「本件特別合宿」という。)に参加させ、同人に登校拒否を克服させるためのヨット訓練を受けさせる旨の契約を締結し、同日、被告に対し、本件特別合宿の料金として二五万円を支払つた。

3  本件特別合宿の経過と次郎の死亡

次郎は、昭和五四年二月一一日夕方、他の訓練生一〇名とともに合宿所に入り、翌一二日から同月一七日まで被告及びその指揮下のコーチらによるヨット訓練を受けた。しかし、次郎を含む五名の訓練生について訓練の効果があがらなかつたため、被告はその訓練日程を延長し、他の四名の訓練生は同月一九日までに訓練を終了したものの、次郎には依然その効果が現われないので、さらに日程を延長して同人に対する訓練を継続した。そして、次郎は、同月一九日夜、いつたん合宿所から被告の自宅に併設されたヨットスクールの事務所(名古屋市千種区中道町一丁目七四番所在、以下「事務所」という。)へ移され、その後同月二三日朝、訓練のため再び合宿所へ移された。ところが、次郎は、同月二四日午後二時三〇分ころ、十二指腸球部前面の穿孔による化膿性腹膜炎が原因で死亡した。

4  被告の責任原因

(一) 次郎の十二指腸球部前面の穿孔時期及び死亡に至るまでの経過

次郎の十二指腸球部前面の穿孔(以下「本件穿孔」という。)は、次郎が後記(二)で主張するとおり、昭和五四年二月一六日夕方に激しい腹痛を訴えたころに生じたものというべきである。そして、本件穿孔部は、その後大網膜により不完全ながらも被覆されたため、右穿孔部から腹腔内への十二指腸の内容物の漏出が若干抑えられ、直ちに化膿性腹膜炎に移行することなく約八日間を経過したが、結局右被覆が剥離して急激に化膿性腹膜炎に移行し、次郎は、これにより前記のとおり死亡するに至つたものである。

(二) 本件特別合宿における次郎の容体

一般に、十二指腸球部前面に穿孔が生じたときには腹部が発作性の激痛に襲われ、顔は苦悶を呈して蒼白となり、かつ、右腹痛のため上体を屈曲する等の重篤なショック症状を伴うが、次郎も昭和五四年二月一六日夕方、訓練を終えて入浴する際、激しい腹痛を訴えてその場に座り込み、被告やコーチに医師の診察を受けさせてくれるよう訴え、その日は入浴をとりやめ、夕食もとらなかつた。そして、次郎は、翌一七日も腹痛を訴えて訓練を休み、その後同月一八日から同二三日朝までの間にも依然腹痛(但し、本件穿孔発生時の激しい腹痛は、数時間経過後には弱まり持続性の鈍痛になる。)を訴え、食欲もなかつた。そして、同月二四日の朝になると、次郎の容体は非常に重篤なものとなり、次郎は、もはや腹痛を訴える気力すらなくなり、その場に座り込むような状態であつた。

(三) 被告の注意義務違反

被告は、情緒障害のある訓練生らを保護者の委託により預かつて、これを一定の期間完全に自己の管理、監督下においた状態で前記1のような厳しい合宿訓練を行なうものであるから、ヨット訓練中の事故の発生を防止することは勿論、合宿期間中、訓練生の健康管理を含む生活部面全体に注意を配り、急病その他による不測の事故を未然に防止する義務を負うというべきである。そして、前記(二)の次郎の容体、就中昭和五四年二月一六日夕方のような激しい腹痛の訴えがあつた場合には、何ら医学的知識を有しない被告としては直ちに医師の診察及び適切な治療を受けさせるべきであつたにもかかわらず、いつたんは右腹痛の訴えが真実のものであるかも知れないとの疑いを抱きながら、次郎の容体を過小評価し、同人一人に医師の診察を受けさせれば、他の訓練生も同様に腹痛(詐病)を訴えて医師の診察を要求するようになるのは必定で、そのような事態になると本件特別合宿における訓練そのものが成り立たなくなるものと判断したことも相俟つて、結局、次郎の右腹痛の訴えを詐病であると断定し、同人に医師の診察を受けさせず、同月一七日の訓練は休ませたものの、同月一八、一九日にはヨット訓練を強制し、その後も死亡に至るまで同人に医師の診察を受けさせなかつた。

(四) 因果関係

十二指腸穿孔による死亡率は極めて低く、せいぜい一ないし二パーセント程度にすぎないものであるから、次郎が昭和五四年二月一六日夕方に激しい腹痛を訴えた段階で同人に医師の診察及び適切な治療を受けさせておけば、同人の死亡は回避できた筈である。

(五) 以上のとおりであるから、被告は、原告らに対し、契約上の債務不履行又は不法行為に基づき、それぞれ次郎死亡による損害を賠償する責任を負うというべきである。

5  損害

(一) 次郎の逸失利益

左のうち一五二六万円

昭和五四年度賃金センサスにおける学歴計、企業規模計の一八歳から一九歳までの男子労働者の一年間の給与総額一四二万四三〇〇円により、一八歳から六七歳までの四九年間就労可能として、生活費を五割控除のうえホフマン方式で算出すると、142万4300円×(25.8056―4.3643)×0.5=1526万9421円

(二) 次郎本人の慰藉料

七〇〇万円

八日間も腹痛に苦しみ、半拘束の状態で医師の治療も受けさせてもらえず苦悶のうちに死亡した次郎の無念さは計り知れず、これを慰藉するには七〇〇万円が相当である。

(三) 次郎死亡による相続

原告らは、次郎の死亡により、同人の父母として、同人の被告に対する右(一)、(二)の損害賠償請求権を二分の一(一一一三万円)あて相続により承継取得した。

(四) 原告ら固有の慰藉料

(1) 被告の乱暴な健康管理により次郎を殺されたも同然というべき原告らの心痛を慰藉するには各一五〇万円が相当である。

(2) 仮に、次郎本人の慰藉料の相続が認められないときは、各五〇〇万円が相当である。

(五) 葬儀料    三〇万円

原告恒郎は次郎の葬儀料を支出したが、そのうち少なくとも三〇万円は被告の債務不履行又は不法行為と相当因果関係にある損害というべきである。

(六) 弁護士費用

原告恒郎  一三〇万円

同 梅子  一二〇万円

6  よつて、原告らは、被告に対し、債務不履行又は不法行為に基づき、原告恒郎は一四二三万円及び弁護士費用を除いた内一二九三万円に対する次郎死亡の日の後である昭和五四年五月九日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の、同梅子は同様に一三八三万円及び同内一二六三万円に対する前同日から支払ずみまで前同割合による遅延損害金の各支払を求める。

二請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実中、被告が名古屋市において、少年を対象とするヨットスクールを経営していたこと、その後登校拒否児等のいわゆる情緒障害児を対象とする特別合宿を開始したこと、同合宿が保護者の委託に基づいて情緒障害児らをヨットスクールの合宿所に集め、通常五泊五日の日程でヨットの艤装から単独帆走に至るまでの訓練を通じてその精神力を鍛練し、これによつて極めて短期間で情緒障害を克服させようとするものであることは認め、その余は否認する。

特別合宿の開始時期は昭和五二年一二月である。また、ヨット訓練による情緒障害児の治療の眼目は、訓練生が被告の設計にかかる極めて安定性の悪い訓練用ヨットに単独で乗せられて、岸から一〇〇〇メートル以上沖合の海上において誰の手助けもない(但し、マイクによる指示が状況に応じて少しずつ与えられる。)孤立無援の状況下で、何度となく転覆、海中への転落を繰り返しながら、海の持つ厳しさ(人の行為によるものではないから人に対する怨念も生じない。)に立ち向かいつつ、徐々にヨットの帆走技術を身につけていく過程で、その精神力が鍛練されるとともに、ヨット帆走が可能になつたときの爽快感、充実感によつて自信を取得していくことにある。したがつて、訓練の過程で被告やコーチから厳しい叱正が加えられるのは当然であるが、それ以上の体罰などは全く不要のことである。

2  同2の事実中、原告らの次男である次郎が昭和五四年二月当時、大阪府堺市立M中学校一年に在学中であつたこと、原告らがたまたま人を介して被告の行なう特別合宿のことを知り、これに次郎を参加させて同人が登校するよう改善してもらおうと考え、同月一一日、被告との間で次郎を本件特別合宿に参加させ、同人に登校拒否を克服させるためのヨット訓練を受けさせる旨の契約を締結したこと、原告らが被告に対し本件特別合宿の料金として二五万円を支払つたことは認め、その余は否認する(次郎の欠席日数については知らない。)。

次郎はすでに登校拒否の状態にあつたものである。また、右料金が支払われたのは、同月五日である。

3  同3の事実中、次郎が昭和五四年二月一一日夕方、他の訓練生とともに合宿所に入り、翌一二日から同月一七日まで被告及びその指揮下のコーチらによるヨット訓練を受けたこと、次郎を含む五名の訓練生については訓練の効果があがらなかつたため、被告がその訓練日程を延長し、他の四名の訓練生は同月一九日までに訓練を終了したものの、次郎には依然その効果が現われないのでさらに日程を延長して同人に対する訓練を継続したこと、次郎が同月一九日いつたん合宿所から事務所へ移され、その後、同月二三日朝再び合宿所へ移されたこと、次郎が同月二四日午後二時三〇分ころ、十二指腸球部前面の穿孔による化膿性腹膜炎が原因で死亡したことは認め、その余は否認する。

4  同4について

(一) 同4(一)の事実中、次郎が昭和五四年二月一六日の夕方腹痛を訴えたこと、本件穿孔部が穿孔後大網膜により被覆されたことは認め、その余は否認する。

本件穿孔は、以下に述べるとおり、次郎が本件特別合宿に参加する以前に既に発生していた可能性がある。すなわち、名古屋大学医学部に対する調査嘱託の結果によると、本件穿孔は、次郎死亡の日より四、五日前から一二、三日前までの間に生じたものであるとされているが、次郎の本件特別合宿への参加期間は実質一二日余りであるから、参加前に本件穿孔が発生していても右とは矛盾せず、次郎の死亡に関して、被告を業務上過失致死の疑いで捜査した名古屋地方検察庁も本件穿孔が本件特別合宿前に生じていた可能性があるとしている。また、次郎は、本件特別合宿参加前の昭和五四年二月九日に医師による健康診断を受け、異常がないとされているが、十二指腸に穿孔が生じていても孔が小さくてかつ本件のように大網膜により被覆されている場合には、医師が穿孔を見逃すことも十分あり得るのであつて、本人も何らの自覚症状がないため治癒したものと勘違いすることがある。さらに、本件穿孔の原因は十二指腸潰瘍であり、これはストレスによつて発症するというのが通説であるところ、次郎は、小学校六年生以来、登校拒否、家庭内暴力を繰り返し、これに対しては、父親から激しい殴打その他の体罰が加えられていたため、同人には相当重度のストレスがうつ積していたというべきであり、その結果同人に十二指腸潰瘍が発症、進行し、本件特別合宿参加前に本件穿孔が生じた可能性を払拭することができないのである。

(二) 同4(二)の事実中、次郎が昭和五四年二月一六日夕方に腹痛を訴え、その日は入浴をとりやめ、夕食もとらなかつたこと、翌一七日の訓練を休んだことは認め、その余は否認する。

右の次郎の腹痛の訴えは、後記のとおり、原告主張のように激しいものではなく、同人がその日の入浴をとりやめ、夕食もとらなかつたのは、被告の方で大事をとつてそのようにさせたものである。また、被告は訓練生の身の回りの世話を担当していた水谷美地子(以下「水谷」という。)に指示して、次郎に下剤(漢方薬)を飲ませるとともに、引き続き同日午後一一時三〇分ころまで次郎に付き添わせたが、同人は、水谷が付き添つている間は唸り声をあげ、側を離れると唸るのを止めるという状態で、必ずしも真実味を帯びたものではなかつた。そして、次郎自身も腹痛は便秘が原因であるとして浣腸をしてくれるよう求めていたにとどまり、医師の診察を受けたいと訴えた事実はなく、一〇名以上いたコーチの誰が見ても次郎が重篤な疾病に罹患していることを窺わせるような状況は認められなかつた。さらに、原告ら主張のような十二指腸穿孔時の症状はあくまで急性、激性の開方性穿孔の場合のことであつて、非急性、軽症の被覆穿孔の場合には緩慢な経過を辿ることがある。そして、次郎死亡時における本件穿孔の直径は約一センチメートルであるとされているが、穿孔部は、当初小さいものであつても、その後継続的に消化液や細菌等の接触により壊死を起こして広がつていくことがあるから、本件穿孔は、穿孔時には比較的小さなものであつた可能性を否定することができないのであつて、右穿孔部の大きさのみから直ちに本件穿孔が急性、激性の開方性穿孔であつたと断ずることはできず、かえつて、前記主張のとおり、本件穿孔部が大網膜により被覆されていたことからは、非急性で緩慢な経過を辿つた可能性が強いものというべきである。したがつて、この点に照らしても、右の次郎の腹痛の訴えが原告ら主張のように激しく、重篤なものであつたということはできない。

また、昭和五四年二月一七日以降の次郎の容体は、以下のとおりであつた。すなわち、同月一七日、水谷が次郎に浣腸をしたところ、同人は前日訴えていた腹痛は完全に快癒したと告げたが、被告は、念のため(なお、当日はラジオによる訓練の実況放送があり、多数の人が集まるため、全くヨットの操縦をすることができず、他のトレーニング面でも他の訓練生に比べて著しく劣つていた次郎を衆目に晒すのは同人にとつて適当でないと考えたことも大きな理由であつた。)次郎にその日の訓練を休ませたが、同人はその間、合宿所の周囲を俳徊したり、昼食後他の訓練生に振る舞われたおやつや甘酒を自分の方から要求して飲食するほどであつた。そして、次郎は、同月一八日、一九日は特に異常のないままヨット訓練を受け、同日夜、いつたん事務所に移されたが、その日は三食とも普通に食べていた。ただ、次郎は同日下着に便をつけたり、コーチの太田喜一朗(以下「太田」という。)に嘔吐感を訴えたりしたが、同人が実際に吐いた形跡はなかつた。次郎は、同月二〇日午前七時ころ、事務所を脱け出してタクシーで名古屋市千種警察署今池派出所(以下「今池派出所」という。)まで行き、同派出所の警察官に自宅に帰りたいと訴えてその助けを求め、結局事務所に連れ戻されているが、その際の次郎の警察官に対する言動からは、何ら同人の健康状態に異常があることを窺うことはできなかつた。次郎は、同月二一日、日帰りでコーチの可児煕允(以下「可児」という。)に連れられて鳥羽までクルーザーの整備に行き、翌二二日は事務所で何もせずに過ごした後、同月二三日に再び合宿所に移され、食事も普通にとつたほか、腹筋運動を五〇回もこなすほどであつた。そして、次郎は、同月二四日の朝食後、可児らから合宿所の周囲の掃除をするよう指示されたところ、両手を地面について前屈みになつた姿勢でその場に座り込んだことがあつたが、このようなことは、同人が肥満児であつたため、本件特別合宿に参加した直後から再三あつた。その後可児と太田は、同日午後から始まる日曜スクールが開講すると次郎の面倒をみられなくなることから、同日昼ころ、次郎を、手足の外傷の治療のため近くの辻病院に連れていつたが、同人は途中の車中においても太田と雑談を交わしていた。ところが、辻病院が休診中であつたため、可児が同病院の裏手に回つたり、他の用件で電話をしているうちに、突然次郎は仰向けになり、目を剥いて口から泡をふいたため、急拠同人を佐本外科に連れて行つたが、同人は既に死亡していた。

(三) 同4(三)の事実は否認し、注意義務の主張は争う。

被告が本件特別合宿を行なうにあたつて負うべき注意義務については、ヨット訓練中の事故防止のための安全配慮義務と同合宿に参加した訓練生の健康管理義務とで別異に考えられるべきである。すなわち、前者については、ヨット訓練が気象条件の厳しい海上において行なわれる極めて高度の危険性を内在させるものであるところから、ヨットの専門家としての被告に極めて高度の注意義務(安全配慮義務)が課されることは論を俟たない。これに対し、後者については、被告は医師でもなく、単に過去の経験的事実の上に立つて、ヨット訓練を通じて情緒障害児の治療を企図するにすぎず、肉体的欠陥のある者に対し医学的治療を施そうとするものではないこと、したがつて、合宿参加者も少なくとも肉体的には健康な者であることを前提とし(慎重を期して医師の健康診断書を提出させていた。)、参加者もこのことを十分に承知していたこと等の事情に照らすならば、被告は、ヨット訓練に起因しない疾病については、訓練生が医師でない一般人の目からみても明らかに専門家による看護及び療養の必要性があると認められるような異常な症状を呈するに至つた場合に限り、適宜これを医師の治療を受けさせる等の措置をとる義務を負うにとどまり、それ以上高度の健康管理義務を負うものではない。そして、前記(二)で述べたような次郎の容体を前提にするならば、次郎が昭和五四年二月一六日夕方に腹痛を訴えたことをもつて、直ちに被告が同人に医師の診察を受けさせる義務を負うということはできず、その後死亡に至るまでの過程においても同様である。

(四) 同4(四)の事実は知らない。

(五) 同4(五)の主張は争う。

5  同5について

(一) 同5(一)の事実は否認する。

次郎は、中学一年次の通知表の成績評定からも明らかなとおり、中学校の通常の学習には全くついて行くことのできない知恵遅れ児童であつたというべきであるから、同人が将来平均賃金を取得する蓋然性はなく、むしろ自己(及びその扶養家族)の生活費以上の所得を得ることは極めて困難で、公的扶助を受けることになる可能性の方が高いというべきである。したがつて、同人には原告主張のような逸失利益はないものというべきである。

(二) 同4(二)の事実は否認する。

(三) 同4(三)は争う。

(四) 同4(四)の事実はいずれも否認する。

(五) 同4(五)及び(六)の事実はいずれも知らない。

三抗弁(過失相殺)

被告は、次郎を本件特別合宿に参加させるについては、原告らに対し、①訓練に耐えうる健康体の持主であること、②自閉症又は知恵遅れでないこと(これらの者については精神力を高めようがなく、特別合宿の効果を望むことができない。)、③子供を騙して連れてこないことの三条件を課していた。しかるに、原告らは、前記二4(一)で述べたとおり、次郎が本件特別合宿に参加する前から既に本件穿孔が発生していた可能性があるのにこれを秘匿していた疑いが強いうえ、前記二5(一)で述べたように、次郎は知恵遅れであつたのに、同じくこれも秘匿して次郎を本件特別合宿に参加させた。さらに、原告らは、次郎には下呂温泉に行くとの虚偽の事実を告げて同人を本件特別合宿に参加させた。そして、原告らが前二者の点を秘匿していなかつたなら、被告は次郎を本件特別合宿に参加させなかつた筈であるうえ、原告らが次郎を騙して本件特別合宿に参加させたことにより、同人のストレスは一層強いものとなり、十二指腸潰瘍ひいて本件穿孔の発生に対し極めて大きな悪影響を及ぼしたものというべきであるから、次郎の死亡については、その責任の大半が原告らにあるものというべく、損害の算定にあたつてはこの点を十分に斟酌すべきである。

四抗弁に対する認否

被告が、次郎を本件特別合宿に参加させるについて原告らに対しその主張にかかる三条件を課したこと、原告らが次郎には下呂温泉に行くとの虚偽の事実を告げて本件特別合宿に参加させたことは認め、その余は否認する。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  被告の行なう特別合宿(請求原因1)について

被告が名古屋市において少年を対象とするヨットスクールを経営していたこと、その後登校拒否児等のいわゆる情緒障害児を対象とする特別合宿を開始したこと、同合宿が、保護者の委託に基づいて情緒障害児らをヨットスクールの合宿所に集め、通常五泊五日の日程でヨットの艤装から単独帆走に至るまでの訓練を通じてその精神力を鍛練し、これによつて極めて短期間で情緒障害を克服させようとするものであることは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1被告は、昭和三七年三月、名古屋大学工学部機械科を卒業後、同三九年の「チタ二世号」グループでの太平洋往復横断、同四四年の「チタ三世号」グループでの太平洋横断の各国際ヨットレースに参加した後、同四五年には香港・マニラ間のチャイナ・シー・ヨットレースに優勝し、さらに同五〇年には第一回太平洋横断シングルハンドヨットレースに優勝するなど幾多のヨットレースで優勝した経歴を有する日本外洋ヨット界の第一人者で、国際的にも著名なヨットマンであつた。

2被告は、昭和四五年七月ころから同四九年ころまでヨットスクールを経営したことがあつたが、第一回太平洋横断シングルハンドヨットレースに優勝した翌年の同五一年秋ころから同五三年春ころまでの間に、ヤマハ発動機株式会社(以下「ヤマハ」という。)の後援により、少年を対象として、欧米のヨット先進国並の実力を有するヨットマンの育成を目的とするヨットスクールを全国八か所に開設した(期間は一年間とし、一か月二回の訓練を行なうほか、冬季及び夏季には、二泊三日の合宿訓練も行なう。)。右ヨットスクールは、従来の少年を対象としたヨットスクールが行なつていた微温的な訓練とは異なつて、子供の優れた状況適応能力に着眼し、被告自身の設計にかかる極めて高速で転覆しやすく、かつ、横流れしやすい練習用ヨットを一艇あて子供に与え、転覆を繰り返しつつこれを自力で操作していく過程でヨットの操縦技術を身につけると同時に、子供らの頑健な肉体、独立心、連帯感、集中力、忍耐力等を形成しようとするものであつた。

3ところが、昭和五二年四月ころ、名古屋で開講されていたヨットスクールに当時小学校五年生の登校拒否の情緒障害児がたまたま入校し、数か月間のヨット訓練の結果完全に登校拒否を克服したことがあり、これを新聞等のマスコミが大きく取り上げて全国的に報道したため、全国各地の情緒障害児を持つ親等から被告に対する問い合わせやヨットスクールの入校希望が殺到し、多数の情緒障害児がヨットスクールに入校するようになつた。そこで、被告は、自己の行なうヨット訓練が情緒障害児の治療に効果があるとの自信を深め、同年一二月ころからヨットスクールに、一般の児童とは別に、情緒障害児のみを対象とした特別合宿(通常は五泊五日の日程)を併設して、本格的に情緒障害児の訓練に乗り出すこととした。

4情緒障害児とは、情緒の不安定ないし緊張によつてさまざまな行動上の問題、神経症的ないし病的反応を呈する子供をいい、吃音児、神経性習癖児、緘黙児、登校拒否児、非行児、夜尿症児等がその代表的なものであるとされているが、被告は、右のような情緒障害の根本的原因は、当該児童の精神力の虚弱さにあるものと考え、これらの児童の甘えを排し、前記2で認定した極めて扱い難い練習用ヨットに一人で乗せて、岸から一〇〇〇メートル以上の沖合に引き出し、全く逃げ場のない孤立無援の状況下において、児童らが、幾度となく転覆、海中への転落を繰り返しながら、生命に対する危機感に駆られて必死にヨットの操作に努力し、最終的に単独帆走することができるようになる過程を通じて、その精神力を鍛練すると同時に、苦難の末単独帆走が可能になることによつて得られる充実感、満足感、爽快感、自信の回復も相俟つて、情緒障害を克服させることを企図した。したがつて、右訓練は必然的に極めて厳しいものとなり、訓練の過程で訓練生らに厳しい叱正が加えられるのは勿論のこと、陸上での体力トレーニングや海上での帆走訓練において、殴打、足蹴、海中へ突き落すなどの体罰が加えられることも稀ではなかつた。そして、右のような体罰を是認するいわゆるスパルタ式の厳しい訓練が特別合宿の特徴として報道され、被告自身も同合宿の説明書その他の著述の中等で同様のことを主唱していた。

5特別合宿への参加費用は、当初五泊五日の日程(その後のアフターフォローを含む。)で五〇万円(その他ウェットスーツ等の費用も必要である。)であつたが、その後、参加の機会を広く保障するとして、本件特別合宿からは二五万円に値下げされた。また、その後になつて、被告は、ヤマハの後援から離れて、ヨットスクールを株式会社組織とし、その代表取締役に就任した。

以上の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

二  次郎の本件合宿参加及びその経緯(請求原因2)について

原告らの次男である次郎が、昭和五四年二月当時、大阪府堺市立M中学校一年に在学中であつたこと、原告らがたまたま人を介して被告の行なう特別合宿のことを知り、これに次郎を参加させて同人が登校するよう改善してもらおうと考え、同月一一日、被告との間で、次郎を本件特別合宿に参加させ、同人に登校拒否を克服させるためのヨット訓練を受けさせる旨の契約を締結したこと、原告らが被告に対し、本件特別合宿の料金として二五万円を支払つたことは、いずれも当事者間に争いがなく、右争いのない事実に〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1次郎は、小学校六年生の二学期ころまでは、一年間に一〇日程度欠席するのみで順調に登校していたが、本件特別合宿に参加する約一年前の小学校六年生の三学期ころから、同人の実兄が情緒障害、自閉症、知恵遅れで養護学校に通学していたことをめぐつて、級友にからかわれたりすること、担任の女性教諭との折合が悪く、同教諭から頻繁に説諭されたりしていたこと、給食時間に何らかの失敗をして、それが気に懸かること等を訴えて、殆んど登校しなくなつた。そして、次郎は、中学入学後は若干の改善がみられたとはいえ、一年次の一学期には出席すべき日数八六日のうち五二日を、二学期には同九三日のうち四七日をそれぞれ欠席するなど、依然登校拒否の傾向が続いていた。そして、次郎の成績は、中学校一年次の一学期は、技術・家庭科が評定3、理科が評定2であつたほかはすべて評定1であり、二学期は、社会、技術・家庭科がそれぞれ評定2であつたほかは、すべて評定1であつた。

2原告らは、次郎が中学校に入学した昭和五三年四月ころから何回かにわたつて堺市教育センターへ教育相談に行き、カウンセリングを受けたり、食事の内容を検討したりする一方、同年八月ころには人を介して被告の行なう特別合宿の話を耳にしたが、そのころは、小学校六年生の三学期に比べればいくらか登校するようになつていたこともあつて直ちに次郎を特別合宿に参加させるつもりはなかつた。ところが、次郎は、中学校一年次の二学期後半になると再び欠席が続き、三学期開始後も始業式の日から連続して欠席した(結局三学期は、本件特別合宿参加前までに九日間しか出席していない。)。そして、次郎は、登校しない日は極めて神経を苛立たせ、手近のものを壊したり、自宅(三階)の窓から腕時計、カメラ、鉛筆削り等を投げ捨てたりしていた。これに対し、原告らは、同恒郎が何度か次郎を殴打するなどして同人を登校させようとしたが効果がなかつたため、たまたま同原告の勤務先の上司の積極的な勧めがあつたこともあり、昭和五四年一月一〇日ころ、原告らは、次郎を被告の行なう特別合宿に参加させることに決め、同梅子が被告に対し、特別合宿への参加手続を照会したうえ、同年二月初めころ、被告との間で次郎を本件特別合宿に参加させて同人に登校拒否を克服させるためのヨット訓練を受けさせる契約を締結し、そのころ被告に右合宿料金として二五万円を支払つた。

3原告らは、同月一一日、次郎には下呂温泉に行くと虚偽の事実を告げて(この点は当事者間に争いがない。)、自動車で集合場所である国鉄名古屋駅へ連れて行き、同人を同駅地下の駐車場内の車中に残したまま、まず原告恒郎だけが被告と面談し、次郎を右のとおり騙して連れて来ていることを説明したうえ、駐車場まで同人を連れに行くよう依頼したところ、被告は、これを了承し、コーチらに指示して他の訓練生とともにマイクロバスで次郎を合宿所まで運んだ。

以上の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

三  本件特別合宿の経過と次郎の死亡(請求原因3)について

次郎が昭和五四年二月一一日夕方、他の訓練生とともに合宿所に入り、翌一二日から同月一七日まで被告及びその指揮下のコーチらによるヨット訓練を受けたこと、次郎を含む五名の訓練生について訓練の効果があがらなかつたため、被告はその訓練日程を延長し、他の四名の訓練生は同月一九日までに訓練を終了したものの、次郎には依然その効果が現われないのでさらに日程を延長して同人に対する訓練を継続したこと、次郎が同月一九日いつたん合宿所から事務所へ移され、その後同月二三日朝再び合宿所へ移されたこと、次郎が同月二四日午後二時三〇分ころ、十二指腸球部前面の穿孔による化膿性腹膜炎が原因で死亡したことは、いずれも当事者間に争いがなく、右争いのない事実に〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1次郎は、昭和五四年二月一一日夕方、名古屋駅から合宿所へ行くマイクロバスの中で、コーチらに行先を尋ねたり、帰宅したい旨を訴えて泣いたりしたため、合宿所に到着後コーチらからこれを咎められて殴打され、同日夜にも再び被告やコーチらから帰宅したい旨を訴えたこと等を理由に殴打された。

2本件特別合宿は、同月一二日から次郎を含む一一名の訓練生を対象として開始されたが、その訓練の内容は概略、午前六時に起床し、ラジオ体操、ランニング、体力トレーニングを行なつて同七時から朝食、同八時から簡単な説明を受けた後ヨットの艤装を開始し、その完了後直ちに海上に出て帆走訓練を行ない、昼食及び昼休みの後、午後一時から帆走訓練を再開し、同五時ころヨットを解装のうえ同六時から整理体操、入浴、更衣をして、同七時から夕食、終了後反省会及びヨットの乗り方についての講義を受け、同九時ないし九時三〇分就寝という日程を五日間繰り返すというものであつた。ところが、次郎は、合宿所に入つた直後から、腹痛、頭痛又は手足の痛みを訴えるなどして訓練を休もうとしたり、身長一五〇センチメートルであるのに体重六〇キログラムを超える肥満児で動作が他の訓練生に比して目立つて緩慢であつたことから、訓練生のうちで最も被告やコーチによる殴打その他の懲戒を受けていた。また、次郎は、ヨットに乗せられて海上に引き出されても、コーチの叱正にもかかわらずコックピットで踞るのみで何らの操作もしようとしなかつたため、同人については、被告の意図する登校拒否の克服はおろか、実質上ヨット訓練そのものを施しえない状況であつた。そして、当初の五泊五日の日程が経過した同月一七日の段階において、被告は、六名の訓練生を帰宅させたが、次郎を始めとする五名の訓練生については、ヨット訓練の効果が十分あがつていないものと判断し、これらの者に対する訓練期間を延長することにして、その後の期間延長と帰宅時期の決定等を可児ら他のコーチらに任せ、自らは所用のため上京したところ、他のコーチらは、他の四名の訓練生については同月一九日までに訓練を終了し、それぞれ帰宅させた。しかし、次郎はなお従前の状態から何らの改善も見られない状況であつたため、同人に対する訓練は継続されることになつたが、その内容は、それまでと異なつて、ヨット訓練以前の生活習慣の躾に重点を置くものとされた。

3可児と太田らは、鳥羽へクルーザーの整備に行く必要があつたことから、同月一九日夜、次郎を連れて合宿所から事務所へ移動した。そして、次郎は、後記四1(一)(6)で認定するとおり、同月二〇日早朝に事務所を脱け出して今池派出所へ逃走し、結局事務所へ連れ戻されるという事件を起こした後、同月二一日、可児に連れられて、日帰りで鳥羽までクルーザーの整備に行き、同月二三日には再び合宿所へ移された。翌二四日は、次郎は、朝から合宿所の周囲の掃除を命じられていたが、合宿所の外で座り込んでしまつて、満足に掃除をすることができなかつた。そして、次郎は、同日午後二時三〇分ころ、十二指腸球部前面の穿孔による化膿性腹膜炎が原因で死亡した。

以上の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

四  被告の責任原因(請求原因4)について

1本件穿孔の発生時期及びその後の経過

(一)  本件穿孔の発生時期

次郎が昭和五四年二月一六日夕方腹痛を訴えたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(1) 本件穿孔は、幽門から約一センチメートル程度の十二指腸球部前面に存し、次郎死亡当時、その直径は約一センチメートルで、打ち抜いたような穿孔状を呈し、穿孔縁はやや丸味を帯び、肉眼的には軽度の浮腫状になつていた。また、本件穿孔部の周辺には浅い潰瘍を呈する部分がみられ、腹膜は、全般的に汚穢灰緑色を呈し、濃厚な膿汁が付着し、汎発性化膿性腹膜炎の様相を呈している。

(2) 本件穿孔部付近の十二指腸の組織の標本を組織学的にみると、以下の諸事実が明らかであり、これらを総合すると、本件穿孔は、次郎死亡の日を基準として、その四、五日前から一二、三日前までの間に生じたものということができる(以下、右組織の標本の組織学的所見を一括して「本症例」という。)。

(ア) 粘膜下層、筋層及び漿膜のうち筋層に隣接した部分には炎症細胞の浸潤がみられるが、その主体となつているのはリンパ球、形質球及びエオジン好性白血球である。そして、一般に、組織に破壊(細菌感染を含む。)があると、これに引き続いて炎症反応が起こるが、この場合、まず急性期には、中性好性白血球が浸出し、これがおさまると、次いで全身の免疫反応の発動等により本症例のようにリンパ球、形質球が浸出してくるのを常とするから、本症例は、本件穿孔の発生(組織の破壊)直後のものではなく、穿孔後ある程度の時間を経過したものである。

(イ) 本症例における右の炎症細胞は比較的少ないが、これは、急性の炎症がおさまると、組織の修復が始まり、その結果、炎症浸出物(炎症細胞、血清成分)や壊死組織等の吸収が始まつたからであり(なお、患者の衰弱が顕著で生体防禦反応が弱い場合にも炎症反応そのものが弱くなるため、当初から炎症細胞の浸出が少なくなることがありうるが、次郎の全身状態には右のような顕著な衰弱は認められない。)、この点からも、本症例は、穿孔後一定時間を経過したものといえる。

(ウ) 漿膜部は、全体として線維性肥厚が顕著であり(十二指腸壁は、通常は一ないし二ミリメートルの薄い壁である。)、特に筋層に隣接した部分は膠原線維に富んだ比較的幼弱結合組織(線維性肉芽)から成り、線維芽細胞も密に分布している。ところで、十二指腸穿孔後一二ないし二四時間を経過すると通常は化膿性腹膜炎を起こすが、その場合、腸内細菌の急激な増殖、中性好性白血球の浸出及び血液からの液性浸出物等により膿性偽膜を形成して漿膜面に付着するが、その後の時日の経過により(但し、本件のような十二指腸球部前面の穿孔では、後記(3)で認定するとおり激烈な穿孔痛を伴うため、比較的早期に治療されるか、治療が遅れれば急性化膿性腹膜炎により死亡する場合が大半であるため、このように時日が経過した症例自体極めて稀である。)、再生、吸収が起こり、線維芽細胞の増生と膠原線維の形成が起こる(幼弱結合組織=線維性肉芽の形成)。本症例の場合は、右のとおり、漿膜に既に幼弱結合組織(線維性肉芽)が形成されているのであるから、穿孔後既に数日以上を経過したものとみるべきであるが、右幼弱結合組織はいまだ硝子化(陳旧結合組織の形成)にまでは至つておらず、硝子化するまでには少なくとも一〇数日を要するのであるから、本症例は穿孔後一〇数日は経過していないものといえる。

(エ) 腸間膜リンパ節には、リンパ口胞の萎縮、口胞内リンパ洞の拡張及び反応性細網細胞の増生がみられるが、このような変化は、通常、炎症反応がかなり長期間続いた場合にみられるものである。

(3) 本件穿孔は、後記(二)で認定するとおり、大網膜によつて被覆され、結果的にはあたかも被覆穿孔であるかのような様相を呈しているが、もともと(発生当初)は、十二指腸球部前面に生じた開放性の穿孔である。そして、開放性穿孔の場合、一般に、穿孔の瞬間に患者は突発的かつ激烈な上腹部の痛み(穿孔痛)に襲われ、かつ、その痛みのため上半身を屈曲させた姿勢をとつてその場に座り込んでしまうが、その後数時間を経過すると、右痛みは持続性、進行性の鈍痛(炎症痛)に移行し、その際、腹膜刺激症状として嘔吐又は嘔吐感を伴うことがある。次郎は、昭和五四年二月一六日夕方、訓練を終えて入浴のため近くの角屋旅館へ行つた際、脱衣場において、強い腹痛を訴えており、被告もその時は、従前とは異なり(次郎は、合宿所に入つた直後から再三にわたつて腹痛を訴えては、被告やコーチらに詐病であると一蹴されていた。)真実のものではないかとの疑いを抱いたほどであつた。そして、次郎は、その夜も夜中まで唸り声をあげていたのであるが、次郎の右の容体の経過は、右に認定した開放性穿孔発生時の症状に符合している。

(4) 次郎は、本件特別合宿に参加する直前の昭和五四年二月九日、篠川外科において健康診断を受けたが、その際次郎が腹痛その他の身体の異常を訴えたことはなく、聴打診の結果も特段の異常は認められなかつた。また、右健康診断の前後を通じて次郎が腹痛その他の身体の異常を訴えたこともなかつた。

(5) 本件穿孔は、十二指腸の消化性潰瘍を原因として生じたものであるところ、十二指腸潰瘍発症に至るメカニズムの細部については兎も角、患者のストレスが十二指腸の自己消化を招来して潰瘍を発生させるものであることは定説となつているが、その発生までの時間については、ストレスの程度によつては瞬時でも発生するという説から少なくとも四、五日はかかるという説等様々の見解があり、潰瘍ができてから穿孔までの時間についても同様に定説がない。したがつて、潰瘍の発生及び穿孔に至るまでの時間のみによつて観察する限り、本件穿孔の原因である十二指腸潰瘍が、次郎が従前から患つていた慢性的な十二指腸潰瘍であるのか、又は本件特別合宿参加後に生じた急性潰瘍であるのかを決定的に断ずることはできない。

(6) 次郎は、昭和五四年二月二〇日早朝、ヨットスクールを脱け出してタクシーに乗つたところ、同日午前七時ないし八時ころ、不審に思つた運転手に今池派出所まで連れて行かれた。その際、次郎は、同派出所の警察官に対し、被告のヨットスクールの訓練が厳しく、コーチに殴打されたりするので逃げ出して来た旨事情を説明し、自宅に帰らせてくれるよう訴えたが、警察官から連絡を受けた原告梅子が被告宅へ電話して問合わせたところ、コーチらが次郎を迎えに行くこととなり、結局同人は事務所に連れ戻された。その間、同派出所における次郎の言動に特別異常なところは認められず、同人と応対した警察官は大人びた話し方をする少年であるとの印象しかもつていない。ところで、前記(2)の組織学的にみた本件穿孔の発生時期によると、次郎が今池派出所へ行つた当時、本件穿孔の発生の有無について両方の可能性が一応想定されるが、後記(二)で認定するとおり、本件穿孔は、穿孔後大網膜により被覆され、穿孔部分から腹腔内への十二指腸内容物の漏出が抑えられていたため、当時いまだ死因となつた汎発性化膿性腹膜炎に移行していない状態であつたといわざるを得ない(次郎死亡時の状態まで汎発性化膿性腹膜炎が広がるには、二四ないし四八時間以上を要するが、死亡の四日前である右時点において明確に化膿性腹膜炎に移行していたとは考えられない。)ところ、このような場合には、一般に、十二指腸穿孔による当初の症状は一時的に軽癒し、多少腹が重い感じは残るものの、一定範囲での食事その他の日常生活には大きな障害はなく、運動もやつてやれなくはない状態となるのであるから、次郎が今池派出所へ行つた当時、既に本件穿孔が生じていたとしても、右に認定した同派出所における次郎の言動や様子と何ら矛盾するものではない。

以上の事実を認めることができ、〈証拠〉中右認定に反する部分は、前掲の各証拠に照らし、採用することができず、その他右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定の事実を総合すると、本件穿孔は、その付近の十二指腸の組織標本の組織学的所見からは、昭和五四年二月一一日前後から同月二〇日前後の間に生じた可能性があるのであるから、その限りでは次郎が本件特別合宿に参加する前に既に発生していた可能性も皆無とはいえないものであるが、他方、同月一六日夕方に次郎が訴えた腹痛その他の症状が、本件穿孔のような十二指腸球部前面の開放性穿孔が生じた際にみられる激烈な穿孔痛の症状とよく符合するうえ、本件特別合宿への参加の前後を通じて、右腹痛以外に、これに匹敵する程度の腹痛その他の身体の異常を訴えた形跡がなく、同月九日の篠川外科における健康診断においても特段の異常が認められなかつたこと等に照らすと、本件穿孔は、同月一六日夕方に次郎が腹痛を訴えたころ生じたものと認めるのが相当である。

(二)  本件穿孔発生後の経過

本件穿孔部が穿孔後大網膜により被覆されたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

本件穿孔発生後、昭和五四年二月一六日夜から同月一七日未明にかけて暫く穿孔痛、腹膜刺激症状が続いた後、右穿孔部は、大網膜により不完全ながら被覆されて、あたかも被覆穿孔のような様相を呈し、そのため十二指腸内容物の腹腔内への漏出が抑えられ、直ちに化膿性腹膜炎に移行することはなかつた。そして、次郎の症状も、当初の激烈な腹痛が一時的に軽快し、鈍痛、身体の倦怠感及び腹の重い感じ(便秘の症状に類似する。)は残るものの、食事その他の一定範囲での日常生活には大きな支障がなく、運動もやつてやれないわけではない状態で数日間を経過した。ところが、右に認定したとおり、本件穿孔部の被覆は不完全なものであつたため、何らかの原因により、次郎死亡の日の二、三日前ころこれが穿孔部から剥離し、十二指腸内容物が腹腔内に漏出し始め、同人死亡の日までの間に重篤な汎発性化膿性腹膜炎に移行した。

以上の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

2本件特別合宿における次郎の容体

本件穿孔は、大網膜によつて被覆され、結果的には被覆穿孔であるかのような様相を呈しているが、もともと(発生当初)は開放性穿孔であり、穿孔発生時には突発的かつ激烈な穿孔痛に襲われ、痛みのため上半身を屈曲させた姿勢をとり、その場に座り込み、その後の時間の経過により右の痛みは進行性の鈍痛(炎症痛)に移行し、その際腹膜刺激症状として嘔吐又は嘔吐感を伴うことがあること、次郎が本件穿孔の発生時期と認められる昭和五四年二月一六日夕方に訴えた腹痛は、それまでに被告が詐病であるとして一蹴していた腹痛とは異なつて真実味を有するものであつたこと、本件穿孔部が大網膜により不完全ながらも被覆された後は、当初の激烈な痛みは一時的に軽快し、鈍痛、身体の倦怠感及び便秘の症状に類似した腹の重い感じは残るものの食事その他の日常生活には大きな支障がないこと、次郎死亡の日の二、三日前ころ、本件穿孔部の被覆が剥離し、十二指腸内容物が腹腔内に漏出し始め、同人死亡までの間に重篤な汎発性化膿性腹膜炎に移行したことは、既に1(一)(3)及び(二)で認定したとおりであり、〈証拠〉によると、いつたん本件穿孔から化膿性腹膜炎に移行した後は、何の治療もせずに症状が小康状態になるということは考えられず、患者は、発熱、呼吸促発、脱水、頻脈の症状を呈した後、さらに時間が経過するとショック状態に陥つて顔貌はいわゆる腹膜炎顔貌(ヒポクラテス顔貌)を呈し、全身的に無気力状態となり、この段階に立ち至ると、日常生活上の動作を行なうことは到底不可能になることを認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

以上の事実に、〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(一)  本件特別合宿に参加した日から昭和五四年二月一六日夕方の本件穿孔発生前まで

次郎は、昭和五四年二月一一日夜合宿所に入つた直後から、頻りに腹痛、頭痛、手足の痛みを訴えたりしていたが、被告やコーチらはこれを訓練を休む口実にするための詐病であるとして一蹴していた(右の腹痛等が真実のものであつたのか、詐病であつたのかは、明らかでない。)。

(二)  同月一六日夕方の本件穿孔発生時から一七日未明まで

次郎は、同月一六日の夕方、その日の訓練を終えて、入浴のため他の訓練生らとともに近くの角屋旅館へ行つたところ、入浴直前に、脱衣場において、他の訓練生の見ている中で、突然激しい腹痛を訴え、被告やコーチに対し、投薬や医師の診察を受けさせてくれるよう求めたが、その様子は、右(一)で認定した従前の腹痛等の訴えとは明らかに異なつた尋常でないものであつた。そして、次郎は、その日の入浴をとりやめて合宿所に戻され、夕食もとることなく、直ちに訓練生が起居する部屋に寝かされ、水谷に腹部をさすつてもらう等の介抱を受けていたが、その間も頻りに唸り声をあげて苦痛を訴えていた。そして、その後次郎は、被告やコーチらの起居する隣室に移され、他の訓練生とは別個に寝かされたが、その後も翌一七日未明に同人が寝入るまで右と同様に唸り声をあげて苦痛を訴えていた。

(三)  同月一七日朝から死亡まで

次郎は、同月一七日朝起床した際、顔色は極めて悪く、かなり顔がむくんでおり、依然腹痛及び食欲不振を訴えていたが、前日とは異なつて、主として鈍痛ないし腹の重い感じが右訴えの内容になつていた。そして、同人は、腹痛は便秘が原因であるとして水谷に頼んで浣腸を施してもらい、若干腹痛がおさまつたとして、水谷が次郎のために特に配慮したパンとスープの朝食をとり、被告の指示によりその日の訓練を休んだ。翌一八日及び一九日には、次郎は、訓練日程を延長された他の四名の訓練生とともにヨット訓練に参加させられたが、ヨットに乗つても自分から体を動かすことは殆んどない無気力な状態を呈していた。また、次郎は、同月一九日夕方、合宿所からヨットスクールの事務所へ移されたが、その夜、太田に対し嘔吐感を訴え、バケツに唾液状のものを吐いたことがあつた。その後同月二四日までの次郎の容体は、前記1(一)(6)認定の同月二〇日の逃亡事件の際の様子を除いては、明らかでない。そして、次郎は、同月二四日早朝ころに、包丁で左腕膊部五、六か所にかすり傷をつけるという自傷行為をした後、午前中には立ち上がる気力すらない重篤な状態に陥り、可児や太田が次郎を近くの辻病院へ連れて行つたときにはすでに意識がなく、同病院が休診であつたため佐本外科へ廻つたときには既に死亡していた。

以上の事実を認めることができ、証人太田喜一朗及び同可児煕允の証言並びに被告本人の供述中右認定に反する部分は、前掲の各証拠に照らし、採用することができず、その他右認定を覆すに足りる証拠はない。

3被告の責任(過失)

(一)  次郎の容体に対する被告の対応

〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(1) 前記一4で認定したとおり、被告は、情緒障害の根本的原因は、当該児童の精神力の虚弱さにあるものと考え、特別合宿においてこれらの児童の甘えを排し、厳しいヨット訓練を通じてその精神力を鍛練して情緒障害を克服させることを企図していたものであるが、情緒障害児の特性については、自己の経験を通じて、少しでも困難な状況に直面すると例外なく腹痛その他の詐病を訴えるなどの口実を設けて、これから逃避しようとするものであるという確固たる基本的認識を有していた。したがつて、被告は、本件特別合宿その他の特別合宿において、情緒障害児の訓練生が腹痛、頭痛等を訴えても、これを虚心に観察して、必要に応じて医師の診察に委ねることは皆無に近く、殆んどの場合、言下にこれを訓練を休む口実にするための詐病であると一蹴して、時には体罰を用いてヨット訓練に参加させていた。そして、被告は、特別合宿中の訓練その他日常生活の基本的事項をすべてみずから決定し、訓練生の訓練にあたるコーチらには、これに基づく陸上及び洋上訓練における個々の訓練生の取扱いについて若干の裁量権を与えていたにすぎなかつたから、コーチらは、被告の右基本的認識に追随し、訓練生らの腹痛、頭痛等の訴えを頭から信用していなかつた。しかも、被告及びコーチらは、もともと心理学、精神医学についての知識、経験を有するものではなく、もとより医学の専門的知識を習得していたわけではなく(但し、水谷のみは心理学を専攻していた。)情緒障害児の腹痛等の訴えが果たして真実のものであるか、詐病であるかの判別について、特に一般人より高度な専門的知識に裏付けられた判断能力を有していたものではなかつたにもかかわらず、右判断を医師等の専門家に委ねるような体制は全く整備されていなかつた。

(2) 被告は、前記2(二)認定のとおり、昭和五四年二月一六日夕方次郎が腹痛を訴えた際、咄嗟にこれを詐病であると考えて、次郎の背中を足蹴にするなどして取り合わなかつたが、次郎の腹痛の様子が尋常ではなかつたことと、これが前記基本的認識に適合する状況下ではなく、むしろヨット訓練終了後の安定した時期(いい換えれば困難な状況が去つたとき)に訴えられたものであつたことから、一度は、真実の腹痛であるかも知れないとの疑いを抱き、次郎を入浴させることなく合宿所に連れ帰つて寝かせたうえ、水谷にその介抱をさせ、漢方薬の下剤を与えたりした。

(3) しかし、同日夜から翌一七日未明にかけて、前記2(二)で認定したとおり次郎が依然唸り声をあげて苦痛を訴えていたにもかかわらず、本件特別合宿直前の次郎の健康診断書により何らの異常がないとされている以上、短期間で急激に容体が悪化する筈はないという先入観があつたことに加え、前認定の情緒障害児の特性についての基本的認識から、次郎一人に医師の診察を受けさせると、他の訓練生も全員腹痛等の詐病を訴えて医師の診察を求める事態になることは必定であり、そうなると短期間しかない特別合宿そのものが成り立たなくなるとの考えに基づき、安易に、次郎の前記腹痛の訴えは詐病であるか、仮に何らかの疾病に起因するものとしてもさほど重篤なものではないと断定して終始医師の診察を受けさせることをせず、翌一七日(当初の合宿終了予定日)の訓練は休ませたものの、その後は他のコーチらに任せて同月一八日、一九日の両日は次郎をヨット訓練に参加させ、同月二〇日以降も次郎に対する訓練(但し、ヨット訓練ではなく、日常生活習慣の躾を中心とするもの)を継続させたが、自らは同月二〇日に帰宅した際、三〇分程度コーチらに次郎の様子を聞いただけで、コーチらには、次郎の訓練その他の取扱いについて何らの指示もしていなかつた。

以上の事実を認めることができ、〈証拠〉中右認定に反する部分は、前掲各証拠に照らし採用することができず、その他右認定を覆すに足りる証拠はない。

(二)  被告の注意義務とその違反

前記一で認定したとおり、被告の行なう特別合宿は、保護者の委託を受けて、一回あたり五〇万円又は二五万円の料金で、登校拒否児等の情緒障害児を保護者の監護から切り難し、昼夜を通じ被告の完全な支配下において行なわれるものであるから、被告は、合宿期間(児童を保護者から委託されてから訓練終了後保護者に引き渡すまで)中においては、ヨット訓練中の事故の発生を防止する安全配慮義務を負うのは勿論、合宿所における訓練生の全生活部面において、病気その他の事由により不測の事態が生じないよう訓練生を監護する義務(以下「監護義務」という。)を負うものというべきである。そして、前記2(二)で認定したとおり、次郎が昭和五四年二月一六日夕方に訴えた腹痛は激烈なものであつたのであるから、医学的素養のない被告としても、次郎が日屡々生ずる軽度の腹痛とは異なる尋常でない事態(急性腹症)に立ち至つているのではないかとの疑念を抱くのが当然であり、このような場合、被告としては、みずから何ら医学的専門知識を有しない以上、前記監護義務の具体的内容として、直ちに次郎に医師の診察及び適切な治療を受けさせるべき注意義務を負つていたものといわざるを得ず、本件合宿参加の際次郎に身体の異常が認められない旨の医師の診断書が原告らから差し入れられていたとしても、右注意義務に消長を及ぼすものではない。また、仮に、情緒障害児は詐病を訴えて訓練を回避しようとするのが常であるというのであれば、情緒障害児の身体的異常の訴えの中に真実なものが含まれていた場合に、これを的確に識別することが通常の児童に比べてかえつて困難であることは見易い道理であり、真実病気である者に被告が標榜する厳しい訓練あるいは体罰を加えることは、取り返しのつかない結果を招くことになるのであるから、これに対する監護義務の内容は、医療行為を担当する者について要求されるのと同程度の極めて高度のものが要求されこそすれ、軽減されるいわれはないものというべきである。しかるに、被告は、既にみたとおり、自己の経験(それも昭和五二年一二月から本件特別合宿まで一年余りの特別合宿の実施を通じて得たものにすぎない。)に基づく情緒障害児の特性についての独断的ともいえる基本的認識に加え、みずから標榜したヨット訓練による極めて短期間での情緒障害の克服という成果の追求に急となる余り、次郎の腹痛の訴えが真実のものであるか詐病であるかを判別するにあたつて、特に一般人より高度の判断能力も医学的専門知識もなかつたにもかかわらず、自己の判断能力に対する過信から次郎の腹痛の訴え及びその後の容体を過小評価し、これを詐病にすぎないか、仮に何らかの疾病に起因するものであるとしてもさほど重篤なものではないと断定して、終始次郎に医師の診察及び適切な治療を受けさせないでこれを放置し、そのまま訓練を継続させたのであるから、被告は、右の点において、前記注意義務を怠つた過失の責を免れないものというべきである。

4被告の過失と次郎の死亡との間の因果関係

〈証拠〉を総合すると、本件穿孔のような十二指腸球部前面の穿孔の場合は、穿孔時の症状が極めて激烈であるため早期治療の機会が多いうえ、胃から十二指腸にかけてのいわゆる上部消化器官内は酸性度が高く、比較的細菌が少ないため穿孔による炎症を起こしにくく、穿孔後六ないし八時間を経過した段階で胃液、腸液等による化学性の腹膜炎を起こすが、これによる全身に対する影響は割合少なく、さらに、周囲の組織の癒着により穿孔部が塞がれることもある等の理由で、全体としての死亡率は極めて低いが、穿孔後二四時間以上を経過して、化膿性腹膜炎を起こしたものについては、手術療法を行なつても死亡率が飛躍的に上昇すること、本件において、被告が、昭和五四年二月一六日夕方次郎が激しい腹痛を訴えた段階で同人に医師の診察及び適切な治療を受けさせておれば、同人が死亡することはあり得ず、その後二四日までの間においても早期に専門家による適切な処置がなされていれば、助かつたと考えられることを認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定の事実によると、前記3で認定した被告の過失と次郎の死亡との間には因果関係が存するものといわなければならない。

5そうすると、被告は、過失により監護義務に違反した不法行為に基づき、次郎の死亡により同人及び原告らに生じた損害を賠償する義務を免れないものというべきである。

五  損害(請求原因5)について

1次郎の逸失利益  一五二六万円

次郎は、死亡当時満一三歳であつたから、満一八歳から六七歳まで四九年間稼働し、その間毎年収入を得られたものであるところ、昭和五四年度賃金センサス(成立に争いのない甲第一七号証)によると、学歴計、企業規模計の満一八歳から一九歳までの男子労働者に対してきまつて支給する現金給与額は一か月あたり一〇万九九〇〇円、年間賞与その他特別給与額は一〇万五五〇〇円で、年間合計一四二万四三〇〇円であることを認めることができ、右金額を基礎として、これから生活費として五割を、ホフマン式計算方法(ホフマン係数は、一三歳から六七歳までの五四年間の就労可能年数に応じた25.8056から実際に就労可能となる満一八歳までの五年間に対応する4.3643を差し引いたもの)により年五分の割合による中間利息をそれぞれ控除して、死亡時における次郎の逸失利益の現在価額を算定すると、一五二六万九四二一円(142万4300円×0.5×21.4413。ただし、円未満切捨)となり、原告主張の一五二六万円を下らないことは明らかである。

なお、被告は、次郎が知恵遅れであることを理由に、同人が生存していたとしても、同人が将来平均賃金を取得する蓋然性はなく、むしろ自己(及びその扶養家族)の生活費以上の所得を得ることは極めて困難で公的扶助を受けることになる可能性の方が高いとして次郎の逸失利益が存在しないと主張する。しかし、なるほど次郎の中学校一年次の一、二学期における成績は前記二1で認定したとおり極めて芳しくないものではあるが、これは、その間の次郎の出席状況が前認定のとおり非常に悪かつたことが一因となつているともいえるのであつて、右成績により直ちに同人が知恵遅れであつたと断ずるのは相当でなく、したがつて、これを前提とする被告の主張は採用に値しない。

2次郎本人の慰藉料  六〇〇万円

前記四で認定した諸事実に照らすと、次郎は、本件穿孔による激しい腹痛及びその後の苦痛に悩まされ、これを被告やコーチに訴えたにもかかわらず何ら顧みられず、医師の診察及び治療の機会も与えられないまま死亡するに至つたものであり、その他本件に顕われた諸事情を斟酌すると、次郎の精神的苦痛に対する慰藉料としては六〇〇万円が相当である。

3次郎死亡による原告らの相続

原告らは、次郎の死亡により、その父母(この点は前記二1で認定のとおりである。)として、同人の被告に対する右1及び2で認定した逸失利益及び慰藉料合計二一二六万円の損害賠償請求権を二分の一(一〇六三万円)ずつ相続により承継取得した。

4原告ら固有の慰藉料

各一〇〇万円

前記(二ないし四)認定のとおり、原告らは、その長男が自閉症、知恵遅れ等で養護学校に通うような状態であつたことから、次郎に一人息子に匹敵する期待を寄せていたことは想像に難くないところ、原告らは、次郎が登校を拒否するようになつたため、教育センターにおけるカウンセリング等の対策を試みていたさなかに被告の行なう特別合宿の評判を聞き及び、次郎がこれにより登校拒否を克服することを切望して、同人を本件特別合宿に参加させたものであるにもかかわらず、被告の過失により次郎を失つたものであつて、その他本件に顕われた諸事情を勘案すると、これによつて被つた原告らの精神的苦痛に対する慰藉料としては、各一〇〇万円が相当である。

5葬儀料

三〇万円(原告恒雄のみ)

〈証拠〉を総合すると、原告恒郎は、次郎の葬儀及びこれに関連する法要の費用として合計三七万三三六〇円を支出したことを認めることができるところ、次郎の年齢、境遇及び家族構成並びに原告らの社会的地位、職業等諸般の事情を総合すると、少なくとも原告主張の三〇万円は社会の習俗上必要かつ相当なものと認めることができる。

6弁護士費用 各一〇〇万円

〈証拠〉によると、原告らは、被告に対して不法行為に基づく損害賠償を請求するにつき本件訴訟を提起することを余儀なくされ、右訴訟の提起及び追行を原告代理人に委任し、その際同代理人に対して手数料三〇万円、当面の費用二〇万円の合計五〇万円を支払うとともに、本件完結後原告らの取得した金額の一割に相当する報酬を支払う旨を約したことを認めることができ、右事実に、本件事案の難易、請求額、審理の経過、認容額等を総合勘案すると、各原告につきそれぞれ一〇〇万円の弁護士費用が本件不法行為と相当因果関係に立つ損害と認めるのが相当である。

7過失相殺(抗弁)について

被告が次郎を本件特別合宿に参加させるについて、原告らに対し、①訓練に耐えうる健康体の持主であること、②自閉症又は知恵遅れでないこと、③子供を騙して連れて来ないこと、の三条件を課していたこと、原告らは、次郎には下呂温泉に行くとの虚偽の事実を告げて本件特別合宿に参加させたことは当事者間に争いがない。しかし、前記四1(一)で認定したとおり、本件穿孔は、次郎が本件特別合宿に参加した後に生じたものであり、また、次郎が知恵遅れであつたと断することができないことも既にみたとおりである。そして、〈証拠〉によると、被告が前記③の条件を課したのは、もし子供を騙して連れて来ると、子供自身が騙されたということに固執し、自己弁護に走つたり、訓練を怠ける口実にするという、もつぱら訓練の効果の面における理由からであつて、これにより予供のストレスが増加して、健康管理上悪影響を与えることを理由とするものではなかつたこと、被告は、昭和五四年二月一一日、本件合宿の訓練生の集合場所である名古屋駅において、原告恒郎から次郎を騙して連れて来た事情の説明を受けたにもかかわらず、次郎の受入を拒むことなく、かえつて同原告の依頼に基づき、コーチらに同駅地下の自動車の中にいた次郎を連れて来させて、マイクロバスで合宿所に運ばせたことを認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。また、ストレスが十二指腸潰瘍の誘因であるとしても、ストレスの程度等との関係における潰瘍発生のメカニズムについて定説がないことは前記四1(一)(5)で認定したとおりであるから、次郎が騙されて本件特別合宿に参加させられたことが、同人のストレスにいかなる影響を及ぼしたか(騙されると否とを問わず、同人の意に反して強制されたものであることには変わりない。)、あるいはそれが本件穿孔発生に寄与したか否かについては全く不明といわざるを得ない。

以上の事実を総合すると、被告の過失相殺の主張は、その前提事実を欠くか、次郎の死亡との間の因果関係を認め難い事実を基礎とするものであるから、失当であり、その他過失相殺をすべき特段の事情を認めるに足りる的確な証拠はない。

六  結論

以上の次第であるから、原告らの本訴請求は、不法行為に基づき、原告恒郎が一二九三万円及び弁護士費用を除いた内一一九三万円に対する次郎死亡の日の後である昭和五四年五月九日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の、同梅子が一二六三万円及び前同様内一一六三万円に対する前同日から支払ずみまで前同割合による遅延損害金の各支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条但書を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(島田禮介 牧弘二 戸倉三郎)

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